昭和51年03月22日 朝の御理解



 御理解 第68節
 「神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかにありがたそうに心経やお祓いをあげても、心に真がなければ神にうそを言うも同然じゃ。拍手も、無理に大きな音をさせるにはおよばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声をしたり節をつけたりせんでも、人にものを言うとおりに拝め。」

 三代金光様も「信心には、辛抱することが一番大切でございます。」と仰ってある。教祖様も至る所にあの、辛抱と言う事を仰っておられますね。今日この金光大神、御理解第、こら、金光教祖様岡山の、津川という人に御理解なさっておられるのがございます。今日はこれを頂きましたから、これあのしたらやっぱり、この辛抱の事が出ておりました。読んでみましょう少しですから。「何にても辛抱というが肝心じゃ。信心には尚更の事、辛抱が弱くてはおかげが取れぬ。
 中にはやけを起こして信心を止める人がある。気の毒の事である。車でも心棒が弱ったり折れたりしたら車が転ばぬ。信心ばかりではない。人間の行にては何にても辛抱が肝心じゃ。辛抱をせずに幸せを得たものはあまりいない。漁夫、(漁師のことでしょうね、)でも農家でも商人でも辛抱の無き者は出世は出来ません。漁夫や農家は雨風の天災があり、商人は損をしたり不幸せな事がある。それを辛抱して行かねば良き事にはなれぬ。これと同じ事で信心するにも辛抱が大切である。
 その証拠には、神の御(お扉の事でしょう)御戸を開いてみよ。御幣かお鏡のほかは何もない。只々信心の辛抱でおかげがでるのじゃ。神様からおかげが出ると思わずに、信心からおかげが出ると思うて、信心の辛抱を強くせよ。」とあります。信心の辛抱を強くすると。そこでただ辛抱と言う事だけではなくて、いわゆる信心辛抱です。なら信心辛抱と言う事は信心です。ね。信ずる心ね。神心いうならば確信を持てる所までの信心を頂かなければ。必ずおかげになるです。
 これはまあ私の一番修行中の時分に、まあそれこそ大言壮語に聞こえたかもしれませんけれども、皆さんもそう言うて下さっておった。私がおかげ頂かんはずは絶対ないという確信。それを口に出して言うておりましたらですから皆さんも、いやとてもあぁたがおかげ頂かんごたるならば、例えば、金光様の言わっしゃるとは、みんなしらごつばのち言うてから、みんなも言うくらいでした。ね。だから辛抱が出来たんです。ね。私がおかげ頂かん筈はないと。んにゃあぁたがとてもおかげ頂かんはずはなかち。
 ともう自他共に許すほどしの信心。ね。もし貴方がおかげ頂かんなら、金光様の教えはしらごつと言うくらいにです。言われ又は自分でも思い、それを信ずる事の出来れるくらいな信心は、しなければいわゆる信心辛抱です。私は信心辛抱とは、そう言う事だと思う。ね。そのためにはです、ね。人が一遍参る所は二遍参る、ね。どんなに例えば眠かってもそれこそその当時、帯紐解いて寝た事がなかった。
 あの時分は何というですかね、あのローソク送電とか、線香送電とかと言うて、もう電気がもう朝の四時過ぎから、五時までぐらいの間は、もう小さい線香のような火が灯っておるだけでしたからね。ですからさあ着物を着るとか、帯をですからもう、あの洋服のまま上着だけ、ちょっと着ればすぐ出られるように様なですからもう、いうならばもう緊張の連続です。ね。
 その上今こそここでは表行がもう全廃になっとりますから致しませんけれども、矢張りその時分はとにかくあの桂先生とか、福岡の吉木先生とか、久留米の石橋先生とか、又は三井教会の先生こらまあ、私の手続きの先生方がなさったという修行は、もう色々に工夫してさせて頂いておったんです。もちろん朝の御祈念前の修行、もうそれこそなんと申しますかね、箇条書きにああはしませんこうは致します。様々なその修行もさせていただきながらそして一生懸命まあお参りを致しました。ね。
 ですからあの自分がねその辛抱が、あの出来ませんと、確信が生まれてこないです。やれやれとか、ね。今日はもう御無礼しようとかと、ね。私がおかげ頂けん筈はないという、私は確信信心信ずる心、ね。そのくらいの信心がです。私は信心辛抱だと思います。ね、とても、私がごたっとは、おかげ頂ききるめと、というて参ったっちゃ、なぁにならんです。まあ、そげんとなら、辛抱も出来ません。まあ参りよら、いつかはおかげ頂くじゃろというごたる、気の長いこっちゃ出来んです。
 おかげというものはそんなに、十年も、二十年もかかるもんじゃ絶対ないです。もうそれこそやあっと言う気合の入った信心させて貰うてです、ね。それがその貫かれる、ね。それこそ、もう、そばによったら、熱っと言うくらいな、ね。そういうものが感じられる位な信心でなからなければね。所謂ただ信心辛抱さえしとれち言うて、何十年間も信心辛抱だけでは、それは信心辛抱じゃありません。ただ辛抱しとるというだけに過ぎません。ね。必ずおかげ頂かんはずはない。
 私がおかげ頂かんはずはない。そういう一つの確信が持てれるような、私は信心辛抱でなからにゃならない。その信心辛抱がです、ね。ここにもありますように、その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃと仰せられる、ね。ははあ、こういう辛抱が、御徳になりよるんだなと、自分で分かるくらいな、私は信心でなからにゃいかんと。ね。それも中々普通の時には出来ませんけれども、どうでもここの所だけは乗越えさせてもらわなぁ、頂かしてもらわなければと言う様な、ね。
 時にでなからなければ、今申しますような修行も信心も出来ません。だから信心このその辛抱こそというその辛抱には、ね。確信に満ちた辛抱でなからなければ出来ません。ね、私は次に有難そうに心経や大祓いをあげてもと言う様な事が、あのここに仰っておられますが、信心辛抱と、そう言う様な事が、どこに係わり合いがあるだろうかと思うておった。ただ信心辛抱せよ。
 しっかり信心辛抱せよというだけで、もう御教えは十分だろうと思うけれども、その次に、有難そうに心経や大祓いをあげてもと言う事は、どういう係わり合いがあるかと、こう思わせて頂くのです。ね、いうならばそういう信ずる力、いわゆる確信もない信心辛抱しておる者がですいうならば、ここでどうぞどうぞと言うて、お願いしても有難そうに、例えば大祓いをあげておっても、ね。心経をあげておってもそれは神に嘘を言うも同然じゃと言う事が分かってまいりました。ね。
 信心辛抱その修行も出来ずしといて、拝みよると言う事はね神様にいうならば、ね、嘘を言うも同然の御祈念をしておると言う事にすら極端に、ね、申しますとそう言う事になるのです。いわばその人は拝みよる時だけと言う事になるのですそうでしょうが。ね。ただ拝むだけ拝みよる時だけ。ね、それでは私は神に嘘を言うも同然と言う事になると思うです。先ずその確信に満ちた信心辛抱が出来て私は拝ませて頂く時にです。もうそれこそ人にものを言うとおりに拝ませて頂いて神様が聞き届けて下さると。
 矢張り辛抱し抜くと言う事と同時に、ね。その辛抱はただ歯を食い縛ったという辛抱だけではなくて、ね。私がおかげ頂けん筈はないと、確信するいや確信が頂けれる。もうそれはもうモリモリと、腹の底から湧いてくるものですから、ね。それもほんなら私が言うだけではない、私がそう言うたらそれを聞く人まで、「いやとてもあぁたがおかげ頂かんはずはなかですよ。」と言われるくらいな信心、ね。
 いうならば徹底した信心辛抱、いわゆる修行であります。ね。そしておかげを頂いてくると、もう有難いのですから、それは辛抱が辛抱ではない。ただ有難いと言う事になってしまいます。今日は私はこの信心もうその、至る所に辛抱辛抱と言う言葉が出てまいります。ね、神信心にはいうなら辛抱する事が一番大切だと、三代金光様ご自身が、ね、矢張り泣く泣く辛抱し抜かれて初めて、それを一番大切なものは辛抱だと。ただだからだらだらと辛抱しておるのじゃない。ね、
 親様が座っておれば楽じゃと仰せられたから、それをもう信じきって泣く泣くでも辛抱してござるとです。親様の言葉を信じてそれを辛抱しぬいてござるとです。ね。信ずると言うものが辛抱の中には、なからなければいわゆる信心辛抱にはならんと言う事を、今日は聞いて頂きましたですね。同時に有難そうにここん所を一つあの思うて下さい。ね。有難そうに心経や大祓いをあげても神に嘘を言う。これは真がなければとただ、上の空のごつしてあげてはという風に、私は感じておったけれどそうじゃないです。
 そういう神様を信じきっての信心辛抱が出来て、初めて本当な御祈念が出来るという事です。ね。だらだらとした修行させて頂いておってです。ね。何時かはこうして参りよりゃ、おかげ頂くじゃろと言う様な心持で、なら御祈念をしておると言う事は、それは神に嘘を言うも同然じゃと言う事は、どう言う事かというと、神様には通じはおらんと言う意味なんです。神様が嘘をつきなさるはずはないです。ね。神様には通じよらんと言う事です。成程その間色々な例えば。
 お取次ぎを頂いておかげを頂くというては、今このなら六十八節以外から頂く事ができますよ。ね、そら時々参ったっていわば初めて参ったって、お取次ぎを頂いてお願いをしてそこにおかげを頂く。ここでなら私はおかげというのは、もう御徳に繋がるおかげだと。ずうっと続けて頂けるおかげだと。いわば辛抱初めの間は泣く泣くだったけれどもです。その泣く泣くがもう有難うて有難うてという、三代金光様のお言葉じゃないですけれども、なってくる程しの辛抱だと言う事を今日は聞いて頂きましたですね。
   どうぞ。